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バイバイ2013


今年も今日でおしまい。
母の写真展「命の音」から始まった2013年。
それをきっかけに始めたデイサービス介護の仕事。

たーーぁくさんの人との出逢いがあり、
たーーぁくさんのことを学ぶ一年でした。

家族みんなも元気にそれぞれががんばった一年だったな。
今夜は家族+友だちと楽しく年越し!

それでは皆さま
良いお年をお迎えください。
また年明けに☆
ゆーだい
 写真展開催中によくした会話…

「この写真の中の男の子はお孫さん?」

「いえ、娘の彼です」

ご覧になった方はおわかりですが、母とゆーだいのツーショットが多く展示されていました。

こんなこと書いたらきっとね、ゆーだいに
「マム〜!恥ずかしいだろぉ、、」
と言われそうだけど、この写真を見ていたら書かずにいられなくなりました。



母を支えてくれた人はたくさんいるけれど、母の人生の最期を支えてくれたのはゆーだいでした。

むっちゃんが撮影を始めた頃、
「私の彼に会って〜!」
と母の家にゆーだいを連れて行きました。

初対面とは思えないほど二人はすぐに仲良しになりました。
それから数回母のところに行っては楽しい時を過ごしました。

母は
「こんなにイイコはいないねぇ。むっちゃんは本当に素敵な彼と出会えたねぇ。」
と行く度に言っていました。

病院に入院する前、気落ちしていた母にマッサージをしてくれたゆーだい。
その優しさに涙する母。
とても嬉しそうでした。
その写真も展示されていました。

入院してからもよくお見舞いに来てくれました。
むっちゃんがいなくても一人で病院へ来てくれて、何時間も母の手を握り見守ってくれたゆーだい。

ゆーだいが
「ばーちゃん来たよ!」
と声をかけると必ず笑顔になる母でした。

もぅ、食事も喉を通らないのにゆーだいがゼリーを食べさせてくれると力を振り絞って食べていました。

一時退院した日、車から降りられない母を優しくおんぶもしてくれました。
このことは今思い出しても涙出ちゃうな。

北海道へ里帰りしていたゆーだい。
東京に帰る日が9月11日でした。
それを待つかのように同じ日に天国へ旅立った母。

ゆーだい。
きっとね、20歳の青年には抱えきれない心の痛みや苦しさがあったと思うのです。
でも、最期まで私たち家族を支え見守ってくれました。

ストレートな優しさや愛嬌たっぷりな笑顔で母だけでなく私たち家族をどれだけ救ってくれたでしょう。

この写真。
母の手をじっと見ながらゆーだいは何を想っていたのかな…

ありがとうの言葉では足りないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。

「ばーちゃんは俺のもうひとりの彼女だからさ」
って今でも大切にしてくれて。

ばーちゃんはゆーだいに出会えてほんとうほんとうにに幸せでした。

ゆーだいありがとう。
6年と189日経過
さっきブログの管理ページを見ていたら、
  • ブログをはじめた日
    2006/08/08 (6年と189日経過)
  • いままでに書いた記事
  • 2106件
  • と書いてありました。

もうそんなに長くやっているんだねぇ。。。

みなさんの足跡もたくさん残していただけて(笑)

いつも読んでいただきありがとうございます(^^)
ありがとう
母が旅立ってから3ヶ月が経ちました。
気持ちの整理がついたかといえば、、、
それは今後あたしの中でつくことはないのだろうと思うのです。

やはり親が逝ってしまうのは悲しくてしかたない。
特に母親は子どもにとってすべてなんだと思うのです。
亡くして知る母心…
知るんですよ、ほんとうに…。

それでも、どんなに悲しくても一日は始まり一日は終わる。
生きていく毎日があるのです。

でもね、
あの日、母を看取ったあの日からあたしの中で大きく変わった何かがあるのは確かです。

今まで以上に日々を大切に生きています。
今まで以上に人の優しさを感じます。
今まで以上に自分を大切にしています。

それは母が教えてくれたこと。
反りが合わなくて喧嘩ばかりしていた母とあたし。
でも最期は
「この人の子どもに生まれてほんとうによかった」と心から思った。
母と過ごした最後の時間はお互いを思い合いあたたかくて優しい時間でした。

最期に親孝行してもしかたないという方もいらっしゃるかもしれません。
でもね、
いつ親孝行するなんて関係ないんだと思う。

いつだって、
どんなときだって、
親と子が真っ正面から向き合えたらそれでいいんだって思えるのです。

このブログを読んで「自分は親不孝だよなぁ」と思ってらっしゃる方がいたらあたしは言いたい。
「大丈夫ですょ。あなたが生きていること、元気で生きていることこそが親孝行ですから」と。

そして、イチバン思ったこと。
それは「家族」がいてくれてほんとうによかったということ。
それから子どもを産んでほんとうによかったということ。
それから友だちがいてくれてほんとうによかったということ。

家族がいてくれなかったら立ち直れなかったかもしれない。
悲しければずっとそばにいて話を聞いてくれるパパちゃんやむっちゃんやゆうた。
そばにいてくれることがこんなにありがたいことと改めて思っています。

子どもを産んでよかったと思うことはこれまでもたくさんあったけれど、母を看取るにあたりずっとサポートしてくれたむっちゃんとゆうた。
特にむっちゃんはずっとずっとそばにいてくれました。
とても心強かったし、心から安心できた。
母もそのことが嬉しくて涙を流して喜んでいました。
亡くなる数日前に母はあたしこう言いました。
「明美にいちばん感謝するのはこんなにかわいい孫を産んでくれたことだよ」と。
この言葉はあたしの宝物だしあたしの子どもに生まれてくれたゆうたとむっちゃんに心から感謝です。

友だちもたくさんサポートしてくれました。
ちょっと凹みそうになると察してくれて連絡をくれる。会いにきてくれる。冗談言って笑わせてくれる。一緒に涙を流してくれる…あげたらキリがないくらいいっぱい助けてもらいました。
この感謝の気持ちは絶対に忘れません。

今年は「ありがとう」という言葉をたくさん聞きたくさん言った年でした。
その中でも母の言ってくれた「ありがとう」の言葉。
あたしも母に言い続けた「ありがとう」の言葉。
この言葉を胸に日々を大切に生きていこうと思います。

最後まで読んでくれたみなさんにも…
ありがとう。
母のこと…4
退院して6日目あたりからそれまで穏やかだった母の様子が変わりはじめました。

何かを拒否するかのようにうなされ首を横に振るようになりました。
まるでそれはお迎えを拒否するかのような姿でした。
髪の毛がたくさん抜けるほど首を横に振るのです。

「母さん、何か心配なの?あたしは大丈夫だよ。安心して休んでいいんだよ。」

何回もあたしはこの言葉を母にかけました
それでも母は首を横に振り続けていました。

食べ物も一切摂れなくなり、水を飲ませるのも困難になりました。
ガーゼに水を染み込ませ口を濡らす程度になりました。
尿もまったく出なくなっていました。

それでも意識はあり、呼びかけには応え時折笑顔を見せる母。

看護師さんも驚くほどの母の生命力。
母はほんとうにがんばっていました。


9月11日
いつものように穏やかな朝を迎えました。
母の好きな美空ひばりさんの「川の流れのように」を聞きながら一日がスタート。

いつものように看護師さんがお昼に訪問。
いつものように血圧を測る看護師さん。
しかし、下の血圧が下がりすぎて測れません。
何度も何度もやってくれましたが結局測ることはできませんでした。

そして看護師さんは別室にあたしとむっちゃんを呼びました。
血圧も測れないほど下がってしまったこと、呼吸も変わってきてしまったことを詳しく説明してくれ、今日一日が山だろうとのことでした。
「何があっても大丈夫、しっかりお母さんのそばにいてあげて」
その言葉にあたしとむっちゃんは覚悟をしました。

そしてお昼過ぎ。
あたしは母のベッドの横でミスチルの「花の匂い」と奥華子さんの「足跡」を聴いていました。
母を見ると、あんなに首を振り続けていたのにとても穏やかな静かな顔になっていました。

そして…

14時過ぎあたりから母の呼吸が深くゆっくりとなりました。
もしかしたらこれが最期なのかも?と感じたあたしはむっちゃんを呼びました。
ベッドの高さを一番下にして二人で母の手を握りました。
その手は先ほどまでの温かさがなくなり指先から冷たくなっていました。
母の頬を触ると同じように冷たくなっていました。
「あぁ、これが最期なんだ」
と冷静に受け止められたあたしとむっちゃん。
母にたくさんの感謝の言葉を言い続けました。

小鳥のさえずる声ときれいな木漏れ日のさす寝室。
その陽が優しくあたしたち3人を包んでくれました。

「母さん、天国へ逝ったら父さんによろしく伝えてね」
これがあたしの最後の言葉でした。

母はうなずくように最期の大きな呼吸をし息が止まりました。
14時50分。
母は天国へ旅立ちました。


母のこと...3
家で看取ることを決断して…

でも、、
ただ一人、むっちゃんだけはそれを反対をしました。
「ママは絶対に無理をするもの!ママが倒れたらどうするの?」
あたしのことを必死に心配してくれる彼女。
とても嬉しかった。

いろいろ話し合い、看取っていただく在宅医師とも話をして彼女も納得してくれました。

それからは急ピッチに準備を進めました。
在宅終末ケアにあたり、地域のケアマネージャーさんや医師、看護師、介護用具、などなど面談やら手続きやら慌ただしく時が過ぎていきました。

母には命の宣告はせず、
「リハビリの病院が見つかるまで家に帰ろう」と伝えました。
「ほんと?本当に家に帰れるの!?嬉しい!!」
それまであまりしゃべることもできなかった母がどんどん元気になっていきました。主治医も看護師も驚くほどでした。
喜ぶ母の姿は今でも鮮明に心にやきついています。

9月3日
病院へ母を迎えにいくと母は「明美!!」とあたしに抱きついてきました。
帰れる喜びでいっぱいでした。
寝たきりになった母のために病院が用意してくれた介護タクシーに乗り自宅へ向かいました。

家に着き用意した介護ベッドに寝た母は
「なんて幸せなんだろう」
「ありがとう」
を何度も言葉にし喜びました。

パパちゃんが
「おばあちゃんは一生懸命がんばってきたのだから、今は十分に娘や孫に甘えてね。ママとむっちゃんはずーっとお貸ししますから!」の言葉に泣いて喜ぶ母でした。

その姿を見て、あたしもむっちゃんもこの選択は間違っていなかったと確信しました。

ちょうど大学が夏休みだったむっちゃんはずっと一緒にいてくれました。
固形物が食べれなくなった母にゼリーを食べさせたり、お水やジュースを飲ませたり、むっちゃん一生懸命介護してくれました。

母もいちばん大好きなむっちゃんにお世話してもらってとても幸せそうでした。

ゆうたも仕事が休みの日には必ずやってきて祖母の手をぎゅっと握り続けてくれました。母はそれが何よりの楽しみでゆうたが来てくれるのを心待ちしていました。

医師も看護師も毎日来てくれて母の状態を丁寧に説明してくれました。
あたしたち家族のケアもしてくれ毎日安心して過ごすことができました。

母の念願だった入浴もできました。
入浴介助の方々が母の最後の希望を叶えてくれたのです。
手を合わせて喜ぶ母。。。

在宅介護はしんどいだろうと考えていたあの時のあたし。
でも、それは全然違いました。
毎日毎日がとても意味のある幸せ感でいっぱいで、辛いより楽しいという気持ちでした。
母は毎日笑い、今までケンカばかりなあたしたちでしたが、互いをいたわる言葉がいっぱいでほんとうに素晴らしい日々が続きました。

母の友人も、地域の人たちも、親戚も、あたしの友だちもみんな訪ねてきてくれました。
みんなが笑顔で母の周りはいつも賑やかでした。

こんな時間が永遠に続いてくれたらいいなぁと思っていましたが…


つづく...




 
母のこと...2
主治医からの話は二つありました。

「お母さんの腎臓はほとんど機能していない状態です。再生不良性貧血という病気は出血すると血が止まらないという病気なので、腎臓検査を詳しく行うことも腎臓透析のシャント手術もできません。ハッキリと申し上げます。手を尽くしましたがこれ以上の治療はできません。」

母の状態を見ておおよその予想はついていたものの、その言葉はとてもショックでした。

「母の残された時間はあとどのくらいですか?」
あたしのこの言葉に主治医は
「もうほとんどないと思います。やってあげたいこと、会わせたい人がいたら早くしてあげてください」
と言いました。

そして、
もう一つの話は。。。

病院は積極的な治療が終わった患者を退院させなければならないとのこと。

「自宅」か「療養型病院」か…
これを決めなければなりませんでした。

あたしの頭の中で咄嗟に思ったのは
「療養型病院」でした。
その時のあたしは母の死を自宅で看取ることなど絶対にできないと思ったのです。
医師も看護師もいない自宅でどのように看取るの?
もし、大量に出血したら?
もし、ものすごく苦しんだら?
などなどあげたらきりがないほどの心配がありました。
病院で最期を迎えられないなんて...と主治医に不信感まで抱いてしまいました。

でもその反面、、、
療養型病院に入れるなんて親不孝なのではないか。
最期だからこそちゃんとしなくちゃいけない。
責任転換してるのではないか。

頭の中も心の中もグチャグチャな状態でした。

母にはもう時間がない状態と十分理解しつつも、その場では返事ができないままの帰宅になりました。

不安いっぱいのあたしに翌日、主治医からの紹介で看護師のTさんから電話がありあたしとパパちゃんとで面談をしました。

Tさんは院内で在宅介護を専門としている看護師さんとのこと。
在宅で、最期を迎えるにあたりいろいろな説明をしてくれました。
・24時間体制で訪問看護師が対応してくれる
・在宅専門医師がいていつでも対応してくれる
・苦しみは薬で調節できる
などなど、あたしが不安に思っていたことをひとつひとつ丁寧に説明してくれました。

数回の面談と毎日のように電話で対応してくれたTさん。

それでもあたしはなかなか決断することができず...ある日Tさんの前で泣いてしまいました。

すると彼女は
「もぅ、十分悩んだよね。もうそれでいいのです。お母さんはね、娘さんが病院を選択しても自宅を選択してもどちらでもいいんです。お母さんは泣くほど悩んでくれた娘さんに感謝するんですから。あとは娘さんが負担にならず、心から笑顔で送ってあげれる環境を選択すればいいのだから。」

そして、隣にいたパパちゃんがこう言いました。
「ママ、僕はね人生ひとつだけ後悔するとしたら、両親を看取れなかったことなんだよね。病院から連絡がきて駆けつけた時はもう亡くなっていたでしょう。これは本当に悲しいことだと思う。ママはおばあちゃんを看取ることで臆病になっているけれど、それができることは素晴らしいことなんだよ。ママのこれからの人生、誇りとして生きていけると思うんだ。」

Tさんの言葉、
パパちゃんの言葉、
二人の言葉をいただいた時、すーっと心の中のモヤモヤが消えていくのを感じました。
すーっと楽になったのです。

そしてあたしは自宅(実家)で母を看取る決断をしました。

つづく…





母のこと...1
母のことを書こうと思います。

あたしの母は平成9年(母60歳)の春に再生不良性貧血が発病しました。
難病指定されている病気です。
骨髄移植のお話しもありましたが高齢ということでこれは断念しなくてなりませんでした。

投薬と輸血という治療法になりました。

発病した当時は医師から「お母さんの残された時はあと3年でしょう」と言われ目の前が真っ暗になったことを覚えています。

しかし、治療が始まり母は奇跡が起きたかのように元気になっていきました。
それは主治医も驚くほどの回復ぶりでした。

こうして投薬、輸血治療を繰り返し今年で15年目(母75歳)を迎えたのでした。

あたしは「母の命は3年」と言われたことなどすっかり忘れ、母はこのまま元気に80代90代を迎えるのだろうと思うほど元気に生活をしていました。

しかし、
6月末に母から「身体中が浮腫んで重いし苦しい」と電話がありました。
即、救急で病院へ。そして入院となりました。
この時、母は身体の浮腫だけではなく腹水もかなり溜まり血小板もかなり下がった状態でした。
原因として再生不良性貧血による腎機能の低下と説明を受けました。

それでも、母はよくしゃべり見た目は元気で、本人も含め家族は1週間ほどの入院だろうな?と話をしていました。

1週間を過ぎ、2週間を過ぎ、3週間を過ぎ...

母の身体は回復するどころかどんどん悪化の道を辿っていきました。
尿もほとんどでなくなりカテーテル導入、浮腫も悪化、腹水も抜いては溜まりと日増しに衰弱していきました。

そんな中、
主治医から「大切な話があるので一度時間を作ってほしい」と言われました。


つづく...




 
3.11
 

2012.3.11..2時46分
市内のサイレンを聞きながら家族で黙祷を行っていると曇っていた空が晴れあたたかな日差しがさしました。

あれから1年。あっという間の1年だったけれどあの瞬間の恐怖が蘇り胸が痛くなりました。



この1年、陸前高田の先生との手紙も一部ですが上の写真のとおりたくさんになりました。

被災してから1年を迎えるにあたり先日送ってくれた手紙を今日は紹介したいと思います。


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拝啓、皆様いかがお過ごしでしょうか。早いものです。「3.11東日本大震災・大津波」被災から一年が過ぎようとしています。私達は多くの方々のご支援と励ましのおかげで生活してまいりました。ありがとうございました。

陸前高田市内では死者不明者が二千人近く、流失した家屋は三千棟以上にのぼり壊滅的状況が続いています。被災一年を前にして行方不明者の捜索がいまだ続き、死者をしのび悲しみに包まれています。久しぶりに会う知人とのあいさつは、「無事でしたか」と手を握り、そして相手を気づかいながら「ご家族は...。」と聞きます。「じつは妻が...」、「子どもが...」と答えが返ってくるときがあります。返す言葉もありません。

この間、私達は、こたつに入っている時、しみじみ語りました。「よく、この地に、とどまって生活してきたね。」ということでした。「これも二人が生きていたからだね。」と。
東京での職場を退職し、陸前高田市内の海辺に移り住み十一年になります。美しい海、山、川、野、田畑を毎日見、松原の砂浜の散歩を楽しんできました。なによりも、知人、友人が多くでき、交流してきたことです。

征喜(ご主人)はプール、夏のカヤック、ピアノ、書道、俳句等のサークルで仲間を作ってきました。高田松原を守る会や気仙大工伝承館の会員に入り地域の団体でも活動をしてきました。

江巳(先生)は保健師、看護師の資格をいかし、「認知症にやさしい地域支援の会」を仲間と作り、活動し、デーサービス(福祉施設)のお手伝いもしています。そして、趣味の三味線を練習し、サークルで民謡を歌って楽しんでいます。

二人ともこのように活動するなかで多くの知人、仲間、友人がいたので千年に一度と言われる大災害に耐えることができたのではとつくづく思うのです。仲間たちと助けられたり、助けたりするなかで被災からみんなで立ち上がろうという気持ちになったのです。

家から眺められる広田湾では、漁師さんたちがホタテ、カキ、ワカメの養殖イカダを浮かべ復活にむけて奮闘しています。塩分を含んだ土砂にうまった田畑では、重機で土砂の片づけ作業が進んでいます。山ぞいの高台の道路に、地元の商店も開業してきています。目にとまるとわざわざ食べに行ったり、商品を買いに行ったり、お互いに元気を分け合っています。

市からの復興計画がまだはっきり出されておらず「イメージ図」というものはあるのですが具体的な動きが見えないため、人口の流出、それに伴って、高齢化が進んでいます。

今年に入り悲しい事故を耳にしました。妻を亡くされ(行方不明のまま)仮設住宅で一人で生活していた知人が死亡され二日後に発見されました...。今後、いろいろな社会問題になるようなことが発生しないことを願うばかりです。

私達二人は今まで通りそれぞれの活動、趣味をやっていきます。
征喜は、週一回のピアノ教室へ。最近ボランティアの方の援助で「民話の里」遠野市へプールに仲間と週一回行けるようになり、充分に水泳ができるようになりました。「高田松原を守る会」の会員として松の育成に多くの支援の方々と取り組み、外国から視察に来られた人達の案内もしたり国の復興計画スタッフの助言などの活動もしています。

江巳は「認知症にやさしい地域の支援の会」の活動を核として、高齢者の方々の保健活動を支えていく活動を続けていきます。

もうすぐ春です。椿が咲くのももう少しで聞こえてくるでしょう。梅の花も今年は遅いのですがもうじきでしょう。野山も新緑にそまり、田畑に作物が植えられていくことでしょう。私達の小さな畑にも秋に植えた「タマネギ」「ニンニク」「ほうれん草」なども、元気に育ってくれることでしょう。

海には、サツキマス、カツオなども回遊してきます。たくさんの恵みを与えてくれる自然、時に大きな災害をもたらしてきたり。地球の歴史は、この繰り返しを残していくのです。その中で人間を含め生物は生きのび歴史を作ってきているのです。「東日本大震災・大津波」でも人々は立ち上がり前へと進むでしょう。

この一年間、本当に多くの皆様に助けられました。そして皆様のやさしさ、あたたかい心使いにもふれさせていただき、多くの人に支えられ生きていつのだと、つくづく気づかされました。本当にありがとうございました。

お会いできる日を楽しみにしております。

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男の子ベイビーラッシュ!!

ジャーン



このコはプーちゃんぢゃぁありません、、。
このコは友だち竹ちゃんのところのベイビー「ハリーくん♂」です
も〜〜超かわいいトイプーベイビーです!

ワンコベイビーだけでなく、、
ここのところあたしの周りはベイビーラッシュ
しかもみーーんな男の子!

近所のめぐちゃん家に男の子ベイビー誕生
そのまた近所の島田さん家も男の子ベイビー誕生
職場でなかよくしてくれている原くんにも男の子ベイビー誕生
(男の子ばっかり〜〜(笑))
そのまたなかよくしている佐々木さんももうすぐママに(これまたお腹の子は男の子らしい)
産休明けで帰ってきた人もいたり(この方も男の子出産)...

( *´艸`)ムププ..男の子ばっかだぁ〜!

赤ちゃん誕生ニュースってなんかいいよね〜。
あたしお祝いの品買い出し係をやっているんですが、おむつタワーっていうの?あれオサレでかわいいのね〜。
あたしの出産の時も欲しかったぁ〜〜
ちなみに22年前はピジョンのマグマグセットが主流だったかなぁ。

職場もみんな和やかないい雰囲気になっていますょ



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